乙女2人が人柱に、遠い昔の錦帯橋の伝説

 岩国四川飯店のテラスから寒さにふるえながら、黄昏の錦帯橋を眺めていると、ふと、”乙女2人が人柱”という哀しい話が、心の中をよぎり、遠い昔の錦帯橋の伝説に思いを馳せました。

 5橋のアーチ(中央の3橋は無脚のアーチ)からなる錦帯橋は名橋で、岩国藩三代目藩主・吉川広嘉公により1673年(延宝元年)に創建され、276年間もの長期間、存続しましたが、完成するまでは、造った橋が何度も流されています。

「錦帯橋の乙女2人の人柱伝説」

 川幅200mの錦川に架ける橋は、何度も洪水で流失してきました。藩主・吉川広嘉公は、長年の調査・研究、苦心・工夫の末、”5連のアーチ”からなる橋を造ることに決し、工事に取り掛かり、やがて完成させました。

 けれども、その橋は、やはり洪水では流されてしまったのです。どんな洪水にも大丈夫だと信じていた、広嘉公や岩国藩の住民たちは、流れ落ちていく橋を見ながら落胆し、無言で立ち尽くすだけでした。

 ある日、流失した橋の近くに多くの人が集まりました。こうなったら、人柱を立てて、水の神様のお怒りを鎮めるほかないと思い始めたのです。すると、「ここにいる者の中で、横つぎのあたっている袴をはいている者を人柱にしてはどうだろう」と提案する者がいました。

 人々は、自失茫然としていましたが、その者の提案に一瞬、「それでは、そうしよう」と賛同し、横つぎの袴の人間を捜し始めました。ところが、その者はすぐに見つかりました。横つぎの袴をはいている者はたった1人、提案した本人の男だけだったのです。男は最初から自分がなると決心していて、発言したのです。

 その男は下級武士でしたが、信仰心がとても厚く、日頃から何か世の役に立ちたいと切に願っていたのでした。家族は反対しましたが、男は「お殿様が長い年月をかけて工夫され、ようやく完成した、その橋がまた流された。あとはもう、神様にお願いするしかないのだよ」と決心は揺らぎませんでした。

 やがて、その男が人柱になることが決まりました。ところがその後、その武士の娘2人が「父は生きてお役に立たなければなりません。父の代わりに私達を」と進み出たのです。

 父は断乎として娘が人柱になることを拒否しました。数日後、武士の娘、乙女2人の水死体が橋台の下で見つかりました。人柱になって埋めてほしいと、2人は身投げしたのです。

 岩国藩では、この乙女2人の死を無駄にしないように、橋台の下に埋めて人柱として立てました。その後完成した錦帯橋は、どんな洪水でも流失することなく、276年間も存続したのです。

 その後、錦帯橋の下の河原では、小石の裏に小さな石人形が、ぽつりぽつり見つかり始めました。これはあの2人の乙女が石人形に姿を変えたものだと、江戸時代の人々は思いました。そして、人柱として身を差し出した乙女2人をしのび、人柱伝説を語り伝えたのです。

 以上が、「乙女2人の人柱伝説」の概要です。伝説が、もし事実でないとしても、胸が痛くなるような話です。

 吉川広嘉公が創建以来276年間存続した錦帯橋は、キジヤ台風により昭和25年9月14日に初めて流失しました。その後、流失した錦帯橋は昭和26年から復旧工事が始まり、昭和28年に完成、以後一度も流失していません。平成13年には26億円かけて架け替え工事が行われ、現在に至っています。

 今でも錦帯橋の河原には小さな石人形が出ます。けれども、実際は、この石人形は、ニンギョウトビケラ(川や湖に生息する1㎝位の昆虫)の幼虫が砂粒を集めて作った、昆虫の巣です。

 岩国の歴史研究者や郷土史家は、「錦帯橋創建時に人柱は行われていない」と断言しています。昭和25年に流失した錦帯橋の再建のため橋台を掘り返した結果、木製の人形は出てきましたが、人骨は発見されなかったのです。

 けれども、この人柱伝説は、最近作られたのものではなく、錦帯橋創建後の江戸時代から言い伝えられています。ほかにも人柱伝説は日本各地にありますが、その真偽が不明であるものも多数あるのです。

 下の写真の実物の石人形のセットは、錦帯橋近くの岩国石人形資料館で買ったものです。石人形はすでに江戸時代から、錦帯橋のお土産として売られており、お守りとして取り扱われています。

 私は、岩国石人形資料館で、このあまりにも哀しい伝説について真偽を尋ねてみました。館長さんは「人柱はありませんでした。作られたものですよ」と強調され、経緯を詳しく話してくださいました。

341IMG_0620 (3).JPG


342IMG_0621 (2).JPG

商品紹介

プロフィール

Romy Rurikawa
あらゆる乗り物が好きなのでよく旅に出ますが、そこは日常の喧騒から逃れて自分をみつめ、淡いふれあいもある、やすらぎの空間なのです。