「ブルーサファイア」エレジー⑭

 フォルクスワーゲン・ゴルフは海岸沿いの国道を走っています。空は晴れていて、車の進行方向の右手には、瀬戸内海の青い海が広がり、島々が浮かんでいます。

 車を運転しながら、カノン先生は、A先輩に向かって、「有坂君は西島君のことを “トラ君”と呼んでいるのね」と言いました。

 「ええ、仲間ですから。親しい仲間は、みんなそう呼んでいます」

 当時、学校では、先生やあまり親しくない同級生は私(西島寅次郎)のことを “西島君” と呼んでいました。けれども、よく話す友人達は、“西(ニシ)君” や “西ちゃん” と呼び、さらに幼なじみや親しい仲間は “トラ君” や “トラ” と呼んでいました。

 これは私だけでなく、当時の子供達は、ほとんど同様な呼び方をしていたのです。

 ゴルフを運転しながら、カノン先生はチラッとルームミラーで後部座席の私の方を見て言いました。

 「西島君、じゃあ、私も西島君のことを “トラ君” と呼んでいいかな? もちろん学校以外でね」

 「アッ、いいですよ」

 私はカノン先生と親しくなれて、すごく嬉しかったのです。それから、カノン先生はA先輩の方をチラリと向いて言いました。

 「有坂君も “A(有=アリ)” 君でいいかしら?」

 「はい」
 
 「それから、A君とトラ君も、私のことを “カノン” と呼んでよ。……これも、もちろん、学校以外でね」

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 私は驚きました。いくら何でも先生を “カノン” と呼び捨てにするなんて、とてもできません。なぜそんなことを言うのか、カノン先生の真意が理解できませんでした。

 「カノン先生、それはできません」と私は答えました。

 すると、カノン先生は真剣な表情で言いました。

 「私は学校以外では気楽に過ごしたいの。レストランや街中などで先生と呼ばれると緊張して、本当に嫌なの」

 「それでも “カノン” と呼び捨てにはできません」

 「……君達との空間を親しいものにしたいの。だから呼び捨ててもらった方が私は気楽なのよ。自分で言うのもあれだけど、私は子供の頃から、“カノンお嬢様” とか “カノン様” と呼ばれて育ったのよ。これは私にとって、とても息苦しかったのよ」

 「やっぱりカノン先生は、お嬢様だったのですね」

 「それが嫌でたまらなかったのよ。それに、これから先、私は君達のことを “トラ” とか “A”  と呼び捨てにするかも知れないわよ。私はそういう性格なの」

 すると、A先輩がきっぱり言いました。

 「それでも年下の僕達は先生を呼び捨てには、とてもできません。他の人が聞いたら、先生が侮辱されていると思うだろうし、僕達も生意気な奴だと思われます」

 「A君の言う ”他の人” って誰のこと?」

 「えっ、それは……僕達に接する周囲の人全てです」

 「その人達は、私達の関係を深くは知らない人達でしょう。知らないでうわべだけ見て判断して、侮辱したり、生意気だと思うのでしょう。だから気にしなくていいのよ」

 「そうでしょうか?」

 「じゃあ、仮にだけど、A君と私が結婚している夫婦だったら、A君は私のことを ”カノン” と呼ぶでしょう」

 「……」

 カノン先生の突然の大胆な発言に、A先輩は沈黙しました。A先輩の顔を見ると、少し赤くなっているのです。

 確かに、カノン先生の理屈は否定できないものがありますが、それでも私はカノン先生を呼び捨てにはできませんでした。

 すると、A先輩が沈黙を破って発言しました。 

 「それは夫婦でしたら、そうかも知れませんが、今は、僕とカノン先生は夫婦ではないので、現実には呼び捨てにはできません。それに、これは例外的なもので、そういう例が他にも多数あるとは思いませんけど」 

 「そうではなくて、真実こそが大切なのよ……。あっ、A君、ごめんなさいね。変な例え方をして、嫌だったでしょう?」

 「……それは、いいですけど。生きていく上で、他の人にも受け入れられた方が、お互いに嫌な思いをしなくて済むと思いますけど」

 「生きていく上で?……そうか……じゃあ、妥協するか! それでは “カノンさん” ならいい?」

 カノン先生が急に妥協したので、その時、私は不思議に思いました。

 でも後に、私はその理由を理解することになります。キーワードは ”生きていく” でした。それは死を決意した人間にとっては、遙か遠くに輝く希望の星だったのです。

 A先輩は、運転しているカノン先生の方を向いて言いました。

 「僕達はいいですけど、先生のお知り合いや、ご両親、ご家族などと遭遇した時、大丈夫ですか?」

 「ふ~、……A君、若いのに、すごく私に気を使ってくれるのね。そんなこと気にしないでよ。私、あなた達と早く友達になりたいのよ。先生なんかつけたら、いつまでたっても友達になれないじゃない」

 A先輩は、しばらく考えていましたが、カノン先生に「分かりました。そう呼びます」と言いました。

 カノン先生はちらっと後ろを振り向き、「トラ君も、いいですか?」と言いました。

 私は「いいですよ」と答えました。

 だけど、その時は、ふと思ったのです。カノン先生は教師と生徒の枠をはずしてまで、どうして私達と友達になりたいのでしょうか。A先輩も同じ思いだったらしく、カノン先生に問いかけたのです。

 「カノンさんは、お金持ちのお嬢さんですから、友人、知人も多いでしょう。それに、すごくきれいな人だから、彼氏がおられるのではありませんか?」

 「……今、A君は、私のこと “すごくきれいな人” と言ったわね。うわ~、運転が無茶苦茶になりそうだわ!……」

 そう言ってカノン先生は、ハンドルをわざと左右に切って蛇行運転をして、A先輩と私をびっくりさせたあと、後部座席の私の方を振り返り、ニコリとしました。

 私も「僕も、カノンさんはとてもきれいだと思います」と言いました。

 「ありがとう」とカノン先生は言って、ちらりとA先輩の方を見ました。

 すると、A先輩がカノン先生に向かって、小さな声でささやきました。

 「カノンさん、僕の質問に答えておられませんけど」

 「彼氏のことね……いるわ」

 カノン先生の答えは、明快でした。(続く)



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プロフィール

Romy Rurikawa
あらゆる乗り物が好きなのでよく旅に出ますが、そこは日常の喧騒から逃れて自分をみつめ、淡いふれあいもある、やすらぎの空間なのです。